真なるコミュニケーション能力とは、問題解決能力である。


Sponsored Link

と、あくまでも私は考えている。

コミュニケーション、得意な人もいれば、その言葉を聞くだけで頭が痛くなるような人も多いだろう。

一般的にコミュニケーション能力とは「複数人での対話において、相手の気分を害さず、波風を立てず、平和に会話を終えることができる能力」という意味で使われているように見える。
これはおおよそ、「協調性」という言葉が備える要素と同じだ。

しかしながら、コミュニケーションとは、ただただ各々が気持ち良く会話をするだけのものなのだろうか。
お互いが満足できれば、それでコミュニケーションというものは完成していて、それだけを続けていれば良いのだろうか。

それは否だ。確かにWANTの要素ではあるが、それは必ずしもMUSTではないだろう。

そもそもだが、一口にコミュニケーションと言っても、そこには二種類のコミュニケーションが存在している。
一つは楽しむことを主眼においた、人生のフレーバーとなるようなコミュニケーションだ。

これは普段の雑談などの、特に達成すべき目的がなく、強いて言えば、「楽しむこと」が目的の場合のコミュニケーションだ。
この時は、一般的な「コミュニケーション能力」を行使するほうが、円滑に、かつ幸福に物事が進むだろう。

問題はもう一つ。
何かしらの目的を達成するためのコミュニケーション、つまりは、問題解決のためのコミュニケーションだ。
これは、例えばチームで何かを行う場合、協業のシーンでのコミュニケーションとなる。

基本的な情報の伝達「報連相」だけでなく、例えば会議の場での発言がそうだ。

こういった場においては、ある程度言いづらい問題を議題に上げるのは非常に重要である。
それはもしかしたら、仲の良い友人の失敗であるかもしれないし、直属の上司の欠点かもしれない。

だが、それらの問題というのは、各々が感じていながらも、「言いづらい」の空気感により見てみぬふりをしていることが大抵だ。
そういった場合、全員が「言いづらい」を持ったまま放置すると、放置期間に比例してそのひずみは大きくなり、いずれは取り返しのつかない問題となる。

そうなる原因はなんだろうか。それはきっと、適切なコミュニケーションが取れなかったことであろう。

結局は「コミュニケーション能力」や「協調性」というワードがうまい具合に隠れ蓑となり、自身の保身に走り、問題の解決を後回しにしてしまったこと。これだけに尽きる。 コミュニケーションの本質を理解していなければ、こういうことになりかねない。

そして、こういった状況に陥っている現場は比較的多いと感じる。

コミュニケーションというのは、相互接待のことではない。
無論、ある程度のお互いの配慮は必要であるが、そこを全てと思って話を続けていると、本質の解決に何も寄与しない。 本質的解決には、必ずマイナスの発言が一定は必要となる。

相手のマイナス面を指摘することは、相手からの印象を悪くするリスクを秘めているため、ミクロな視点で見ると自身にとってマイナスに見えるかもしれない。
しかし、視野を広くもち、長期的に大きな問題しなることを考えると、必ず必要なことである。

問題は指摘をした後にある。
「相手に対してマイナスな発言を絶対に言ってはいけない」という前提でいる人間があまりにも多いため、
言ってしまったあとのことを考えられない人間は多いが、本当に重要なのはその言ってしまったあと、アフターケアの部分だ。

指摘し、相手を非難するだけでなく、寄り添い、共に解決していこうという姿勢が重要であり、それが問題の解決につながり、各々の成長につながる。

そして、良いも悪いもしっかりと相互に認識し、それを共に解決していこうというとどれだけ思えるか。
それこそが、真なるコミュニケーション能力であると、私は考えている。

 

最後に。

先日までこのような光景の現場を体験し、それをどうにか解消しようと進めた私の想いが、どうか少しでも多くの人に届くことを祈って。