物が沢山あると、それだけ心を縛る枷が増えたような気がして。


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私は普段から、持ち物を最小限しか持たない。

愛用のMacBook 12インチに、最近新調したばかりのiPhone SE。それと、abrAsusの小さい財布。これが最小限。 必要に応じて鞄を用意し、それぞれの充電器や必要な書類、ペンや名刺ホルダーをなんかを入れることもあれど、その鞄がいっぱいいっぱいになることは基本的にない。

多少のものであれば、MacBookを包むSnuggのケースにそのまま入れてしまうぐらいだ。

家の自室にも物は少なく、作業用のデスクを除けば、わずか1畳から2畳ほどあれば、すべてのものをしまうことができるだろう。 近々引っ越しを控えているが、この様子だと引越し業者は不要かもしれない。

はてさて、なぜそんな風に生きているのか。 単純にそれが「性に合っていて好み。」というだけで結論づけてしまうことも可能なのだけれど、ここはあえて「不器用だから」と言ってみたい。

モノは記憶であって、枷である。

「思い出の品」というものを、誰しも幾つかはもっているだろうと思っている。 今でも大切にしていて、それは常に近くにあるかもしれないし、遥か遠くの実家の押し入れで埃を被ったまま、眠っているかもしれない。 決して実用性があるわけではないけれど、当時を思い出させてくれる、そんなもの。

私自身は、こういった「思い出の品」というものを一切持たない。 思い出の品というのは、それを通じて、自分にとって幸せだった過去を思い出し、人生に彩りを与えてくれるだけでなく、時として過去からの教訓を得るための重要なツールとなり得るかもしれない。

けれど、私にはまだ、過去に思いを馳せながら、未来へと進む余裕はない。 今過去を振り返ってしまうと、そのまま動けなくなる気がして。

いつかは過去を省みて、そこから未来へとつながるように生きることができるのかもしれないけれど、自分にはその「いつか」がこないのがなんとなくわかっていて。 だからこそ、それなら過去に割いてある、物理的、そして心理的な空間を、全て未来に向けたい。

そのために、私は思い出の品というものは、基本的に保管しないようにしている。
その分、思い出となるような出会いやつながりだけは、今と繋げ続けて、前に進みながらも、常にそれを忘れきってしまわないようにしている。

同様の理由で、「思い出の品」だけでなくとも、荷物は最小限にしたい。

例えば、今このブログを書いている自室にある全てのモノは過去の自分の選択によってこの部屋に置かれ、使用され続けているもの。 そのときどきの自分が、そのときどきの自分にとって最適であると考えて、そのときどきの自分に向けて買ったもの。 過去を生きる自分が、過去を生きる自分自身のイメージを部屋という箱に落とし込んだ記号になる。

そんな過去の自分によって決められた記号に囲まれたなかで生きることによって、せっかくの過去の経験によって変化が生じた自分に、古い記号を押し付けられている気がして。 そんな風に、新しい一歩を踏み出す時に、自分の過去に縛られて生き続けたくなくて。 だからこそ、自分を表す記号をモノに落とし込むことは、最小限にしている。

「思い出の品」とよく似ていて、過去によって現在を縛るものではあるのだけれど、能動的に受け取る「思い出の品」と比較して、生活しているだけで自分に降りかかってくる「荷物」というのは、普段の心理的なハードルを簡単にあげてくる、やっかいなものだとも思っている。

過去のものも沢山活用した上で、現在から未来に向かって進むことができるほど器用でもないから。

最後に、心理的なフットワークを軽くするためにも、ものが少ない状況に慣れていることは重要だとも思っている。

私がはじめて東京に行ったのが、確か中学三年生の時。その時は「事前にきちんと予約された新幹線」で、「予定通りのホテルに宿泊」し、「規定の日数」で帰った。持ち物も、衣類だけでなく細かな日用品も沢山持っていた気がする。

それが今や、5時間後には出発する夜行バスに乗ってみたり、起きた時間に合わせて駅についた時間から一番近い時間帯の新幹線に乗ってみたり、無策だからと駅で寝てみたり。
決して人として褒められたもんじゃない生き方な気はするけれど、フットワークは随分と軽くなったのを実感している。

持ち物だって、3,4日滞在の時でさえキャリーバッグを持っていかず、冒頭で述べた、近辺を移動する時の鞄に服を数枚だけ入れていくこともたびたびある。
衣類なんて、最悪どこかで洗濯するか、もしくは現地で購入すれば良いと思っている。日用品なんてなおさらだ。

勿論、多少費用がかさむことなんてざらにあるし、それによって困ることもないことはない。 けれど、持ち物の確認をして、アレがないコレがないと焦ることもなくなったし、「どのみち無策なんだから」と、好きなように自由に動き回れるようになった、心理的な開放感や自由のほうが、そんな些細な違いより大切だった。

一度準備を周到にすると決めてしまったら、その時その時で柔軟な行動を取るように頭を切り替えるなんてのはまだまだ自分にはできないだろうし、それならこれぐらいがちょうどいい。と、今は思っている。

本当は、事前に迅速に準備ができて、更に不測の事態にも対応できたほうが良いのだろうけれど、あいにく私はそこまで器用なことはできないから、はじめから楽観的に生きられる形じゃないと、息が詰まってしまうような気がして。

そんな風に、色々な物によって引き起こされる、色々な事を受け止めきれるほどには、私は成長していなくて。 その中で、うまく生きていくためには、そんな不器用でも扱いきれるだけのものしか背負わない生きかたが、一番幸せなんじゃないか。と、今は思っている。

当分はそうやって、生きていきたい。